(1880年代-1900年代)
 早稲田大学仏教青年会(以下「早大仏青」と略す)がどのようにして始まったかについては、諸説紛々として判然としない点が多く、その輪郭をくっきりと描き出すことは容易でない。
 明治19(1886)年、東京専門学校(現在の早稲田大学)の内に「教友会」という仏教信仰者の団体が結成され、これが今の早大仏青の前身をなしたと言われている。しかし、結成当時の詳らかな様子を伝える史料はなかなか発見されず、その具体的な経緯については依然として曖昧模糊たるままである。したがって、以下、粗略な叙述となることを免れないが、早大仏青成立の事情について語りうるところを述べてみたい。
 早大仏青の起源は、小野梓(1852-1886年)による仏教普及運動の内に求められる。小野は、英米法学の専門家であり「大隈重信の最大のブレーン」として早稲田大学の建学に多大の働きをなした人物である(早稲田大学ホームページ「大隈を支えた人々」参照)。実務家としての才能を遺憾なく発揮する一方で、小野は仏教の教えに対して並々ならぬ関心を抱いていたという。小野は、大内青巒(1845-1918年)や島地黙雷(1838-1911年)といった当時の仏教改革運動にあって指導的な役割を果たした人物と密接な交流があり、その関係から早稲田においてしばしば仏教の会合を催し、学生に感化を及ぼしていたという。これが早大仏青の源流をなす運動であると見ることにしたい。
 小野に仏教への関心を抱くきっかけを与えたのは、おそらく大内青巒である。明治7年頃、小野は駿河台に住んでおり、そこからわずか半町ほど離れた場所に大内の住居があった。後年の大内は、当時における二人の親交を追懐して次のように語っている。「(小野と大内は)毎日或は毎日位ではない毎日毎夜往來して誠に親しくして居りまして」「(大内らが語る仏教が、世間一般で語られる仏教とはぜんぜん違うものであることを理解して)小野君が此佛法に興味を有たれることになつたのは明治七八年の頃であります」(大内青巒「小野梓君と佛教」早稲田大学仏教々友会編『小野梓』,1918.)。小野と大内は住所が近かったため非常に親しくしていたようであり、その関係から小野は仏教に興味を持つようになったという。
  また、小野と島地黙雷との交流も重要である。島地は真宗西本願寺派の僧侶で、本山機構改革に主導的な役割をなした人物であったが、明治12(1879)年頃には本山と衝突するようになり、東京で白蓮会(のち白蓮社。現在は築地本願寺仏教青年会という団体となっている。)という集まりを結んでいた。小野はしばしば白蓮会に足を運んでおり、次第に島地と深いつながりを持つようになったらしい。島地は大内とならんで、早大仏青の前身である教友会の創立に重要な役割を果たした人物であると考えられるが、その背景には小野との個人的な親交があったことに注目したい。早大仏青は、小野が築いた人脈を基盤として生まれたと言えるだろう。小野・大内・島地の三人がいずれも共存同衆という啓蒙団体の有力メンバーであったことも注意を引く。しかし、残念ながら史料の不足のため、その詳しい事情を探ることは困難である。早大仏青創立の謎を解き明かすためには、この三者が関係を取結ぶに至る足跡を、丁寧に彫り出していく作業が不可欠であるだろうから、後続の研究に期待したい。
 明治19(1886)年1月11日、小野はわずか35歳の若さで他界した。おそらく、このとき小野の逝去を契機として発足されたのが教友会であると考えられる。結成当時における具体的な様子や構成員などについては明らかでない点が多いが、「教友会」の命名者が島地黙雷であるということは辛うじて伝わっている。このとき後の早大総長高田早苗が重要な役割を果たしたのだと伝えられているが、具体的にどのような役割を果たしたのかは残念ながらよく分からないままである。
 また、ちょうどこのころ、本郷駒込の真浄寺において、住職寺田福寿の主唱のもと、大日本仏教青年会という団体が発足した。明治22(1889)年のことである。この団体には、東京帝国大学、第一高等中学校、東京専門学校、慶応義塾、哲学館などの学生数十人が参加したと言われる。おそらく、教友会の会員も含まれていたであろう。このころから、仏教を信仰する学生による集会の結成が活発となっていったようだ。早稲田における運動も、こうした文脈に沿って理解されるべきものと思われる。

(1900年代-1950年代)
 その後、しばらく史料のない期間が続いたのち、1900年代以降になると早稲田教友会は土屋詮教を中心として活発な運動を始めるようになる。土屋は『日本宗教史』や『明治仏教史』を著した戦前を代表する仏教史研究者であり、明治38(1905)年11月から早稲田で教鞭をとっていた。後日の土屋の回想によると、その頃の教友会の活動は、「大柢私が計畫實行に與つたのである」という(土屋「感激と思ひ出」『青年佛徒』1-4,1936.)。土屋は、大正4(1915)年まで教友会の「監督」として、その指導に携わった。このころから教友会の活動は年を追うごとに隆盛に向かったと見え、その活動内容の一端を『早稲田学報』の記事によってうかがい知ることができる。明治39(1906)年11月17日、加藤咄道、村上専精、近角常観らを講師に招いて、創立満20周年紀年演説会を催した際には、講堂(現在の大隈講堂)に1000名もの聴衆を集めたという(『早稲田学報』明治39年12月号)。また、春秋各一回の定期大会や仏典研究会の開催が当時の活動の中心をなしていたものと考えられる。
 大正3(1914)年9月には、教友会評議員(のち監督)であった木山十彰によって仏教主義の理念のもと至心学寮という寄宿舎が設立された(『早稲田学報』大正4年7月号)。戸塚町字諏訪65に設けられたこの寮は、のちに教友会の事務所としての機能も果たすようになる。おそらく寄宿生の多くは教友会の会員でもあったのであろう。至心学寮の存在は、当時における教友会の性格を特徴づけるうえで極めて重要なものである。同じころ、教友会と同様な仏教信者による学生団体が、帝国大学や慶應義塾にも相次いで結成されていたが、これらの団体も会員のための寄宿舎を設けていたという。おそらく、この時代における学生団体の運動は、こうした寄宿舎の存在と切り離しがたい性格を帯びていたのではないだろうか。
 その後、大正4(1915)年に教友会の監督は、土屋詮教から木山十彰と大内俊の二人に交代した。また、このころ早稲田で仏教に関係する研究を行う教員の多くは、教友会の会員となって活動していたようである。その代表的な人物としては、武田豊四郎椎尾弁匡馬田行啓中桐確太郎らがいる。教友会は学生の団体であると同時に教員の団体でもあったようだ。なお、大正5(1916)年には、会の名称を「仏教々友会」と改めている。
 大正7(1918)年、仏教々友会の主催により小野梓先生追懐大講演会が執り行われた。木山監督による開会の辞に始まり、島田三郎、田中穂積、尾崎行雄(前法相)、箕浦勝人(前逓相)らの演説があり、講堂は立錐の余地もない盛況であったという(『早稲田学報』大正7年4月号)。このとき仏教々友会は小冊子『小野梓』を編纂し、講演会の内容を収録した。この小冊子には、会の現況や来歴に関する記述も含まれており、早大仏青の生い立ちを知るうえで数少ない史料のうちの一つとなっている。
 大正8(1919)年5月、仏教青年会は大日本仏教青年会に加盟していた関係から、「聯合上の便宜に依」って会名に「青年」の文字を加え、「仏教青年教友会」と改称した(『早稲田学報』大正8年9月号)。その後、大正12(1922)年までの間に「仏教青年会」という名称に落ち着いたようでそのままの名称で現在に至っている。また、大正12(1922)年には、早稲田高等学院にも仏教青年会を設立している(『早稲田学報』大正12年7月号)。しかし、たいへん残念なことに現在では高等学院の仏青は存続していない。おそらく、どこかの時点で滅びてしまったのだろう。精気あふれる現役高校生が仏青に入って来れないことは、まことに残念である。その後、大正14(1915)年には、武田豊四郎が初代会長として任命され、現在まで続く会長制度の基を開いた(『早稲田学報』大正14年8月号)。(注:早大仏青初代会長について)
 大正15年6月19日には、小野梓先生40周年紀年講演会が催されている。この機会に、再び『小野梓』という小冊子が編纂され、今に伝わっている。
 また、このころ早稲田で結成されていた参禅会(曹洞宗の学生団体)・済蔭団(臨済宗円覚寺で参禅する学生団体)・勝友会(浄土真宗の学生団体)・日蓮聖人讃仰会などの団体が、仏教青年会の傘下に加わった。仏教青年会は、他の仏教関係の学生団体を自らの系列に組み込み、いわば総本山として君臨したのである。なお、昭和5(1930)年頃に、武田豊四郎に代わって中桐確太郎が第2代会長に就任した。
 その後、昭和11(1936)年頃までは、当時の仏青の活動を伝える記事が『早稲田学報』や『早稲田大学新聞』にしばしば掲載されていたが、戦争が激しくなるにつれて姿を消していった。昭和16(1941)年に第3代会長に就任した伊藤康安は後に、戦時中の仏青の活動について次のように回想している。「戦争ですべてが中断されてしまつた。戦時中各大学で、学会や学生の会の廃合が行われ、早稲田では、仏教青年会は、前にもいつたように、高田先生によつてつくられた学内最古の学生の会であるという理由によつて存続することになり、今日に至つているのである。」(伊藤「早大開学75年 仏教青年会の思い出」『宗教公論』27-10,1957.)
 その後、1950年代末にいたるまで、早大仏青の活動は細々としたものであったようだ。その間は、早大文化団体連合の宗教部門というカテゴリーに登録されていたことが知られる程度である。長い潜伏期間を経たのち、早大仏青が復活を遂げるのは、1958年以降である。

※ここから先の歴史については、プライバシーの問題に触れる部分が含まれているため、一時的に記述の掲載を中止しました。今後、関係各位の合意を得たうえで、掲載を再開したいと思います。
※※文中敬称略


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