穴八幡宮は牛込の総鎮守であり、高田八幡宮ともいう。その別当寺が光松山放生寺(高野山真言宗準別格本山)である。寛永13年(1636年)、幕臣の松平直次らが射術練習のためこの地に的山を築き、弓矢の守護神である八幡神を勧請したことから神社が造営された。寛永18年(1641年)には、高野山で修行を積んだ威盛院良昌(もと周防国山口八幡の氏人)が社僧として招かれ、放生寺が開創された。見どころがいくつもあるので、紹介したい。
<穴八幡の「穴」とは?>
良昌がこの地に草庵を結ぼうとして山の斜面を削った際、一個の洞穴が発見され、中から多数の人骨と阿弥陀仏像一体が掘り出されたという。古くからこの近辺を阿弥陀山と称していたこともあって、良昌らはこれを奇瑞として丁重に取り扱った。この穴はその後長く保存され、穴八幡の呼称の由来ともなったが、残念なことに現在は埋められてしまっている。
<光松(ひかりまつ)>
その昔、戸塚原一帯は松樹の繁茂する森林地帯であった。人口の増加とともに開墾が進み、多くの木々が伐り倒されていったが、その中に一株(一説には二株とも)不思議な松があり、暗夜に瑞光を現ずるというので、誰もこれを伐る者がなかった。このためこの樹を称して光松と呼び尊んだという。松平直次がこの地に八幡神を勧請した際、この光松の樹上に山鳩が毎日のように来たって遊ぶので、これを霊瑞としてよろこんだ。このような伝説により、光松は神木として長く人々の尊崇を集めた。ただし、この松は延享年間に枯れてしまったため、その後生えているのは新しく植えられたものである。
<徳川家との関係>
穴八幡宮と放生寺は、徳川家との縁が深い寺社であり、さまざまなエピソードに彩られている。放生寺を開創した良昌が高野山を下りて諸国行脚をしていた折のこと、ある夜、夢の中に不思議な老翁が枕元に立って「辛巳の年の夏、将軍家の御子がご誕生されるに違いない」と告げた。良昌はこれを深く心に留め、誰にも語らなかった。それから二年が経ち、辛巳の年のある夜、再び先の老翁が夢の中に現れたため、良昌は居ても立ってもいられずに、このことを宿屋の主人に語った。すると、老翁の予告どおり将軍家に御子が誕生したという。そのようなこともあってか、放生寺は徳川家の帰依も厚く、徳川家の家紋である三つ葉葵の使用を許可された。また、穴八幡宮には末社として、東照大権現が祭られており、日光山御祭礼の日である毎年4月18日には、多くの参詣者で賑わったという。
<放生会(ほうじょうえ)と流鏑馬(やぶさめ)>
放生会は、八幡放生会といって古くから各地の八幡神社で行われてきた行事である。「放生」とは、捕らえられた生き物を逃がしてやる法事であり、その趣意や因縁は『梵網経』や『金光明経』などに説かれる。中国・日本でも古くより行われ、その法会が「放生会」である。日本では八幡放生会と呼ばれ、各地の八幡神社で行われてきた。放生寺では毎年10月第2日曜日(体育の日)に放生会として魚が池に放される。この日には秘仏開帳も伴われるため、大勢の人が足を運ぶ。その同じ日には、穴八幡宮の主催で流鏑馬が行われる。
<一陽来復/一陽来福>
一陽來復は、 毎年12月冬至から翌年2月節分までの期間に穴八幡宮が授与している御札。陰極まって、冬至に一陽が生ずることを意味する「一陽來復」という『易経』のことばに因む。放生寺もまた、これと同じ由来の御札を授与している。ただし、放生寺では、観音経の結びの「福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)」という偈文から「福」の字をとって「一陽來福」と名付けた。一家の居間に、毎年定められた恵方に向けて貼り、資生招福、金銀融通を祈願する霊験あらたかな御札であるという。 |